さくBは折り紙を折っている

saku B is folding origami.

退職エントリ「大人が子どもにしてあげられること」

今日は折り紙とは一切関係のない話をしますので、折り紙の記事を期待されている方はブラウザの戻るボタンをクリックしてください。

さて、先月、4年間勤務したとある放課後児童預かり事業所を退職いたしました。(正式な名称は伏せさせていただきます)

大学で教職課程を修了、教員免許を取得し、4年間教育関係の仕事に従事した身として、教育に関していくらかお話させていただきます。

まず、教育の主役は子どもです。

主語を大きくして物事を断言するのは危険なのですが、これだけは100%間違いないです。

むしろ、教育の主役が子ども以外であってはいけません。

これは大原則です。

「原則」と言うと「例外」がつきものですが、これに関しては例外があってはいけません。

なので、「原則」というより「原理」と呼んだ方がいいかもしれませんね。

この大原理を理解していれば、教育で大きく間違ったことはしないと思いますが、「子どものためだから」と時には行き過ぎた行動をしてしまうこともあり得ます。

ですので今回は、この大原理を基に教育に携わる大人が子どもに対してしてあげられるいくつかのことをお話します。

なにもしないであげること

さて、教育に携わる大人が子どもに対してしてあげられることの1つ目は「なにもしないであげること」です。

大原理に基づくと、教育の主役は子どもです。

ですから、子どもがやりたいことをできるだけやりたいようにさせてあげることが肝要です。

どうしても危険が伴う場合や道徳に反する場合はやめさせなければいけませんが、そうでない場合は見守りが基本です。

子どもたちのことを思うあまり、大人がやらせたいことを無理やりやらせてしまうような場面が多々ありますし、ついついやり方を口出ししてしまうこともあります。

ですが、子どもたちは自分たち自身で成長できる力を持っています。

好きなことや得意なことは大抵の場合放っておいても勝手にどんどん伸びていきますし、友達同士の遊びや喧嘩の中で他人との付き合い方を学んでいきます。

そこに大人がやってきて、「これはやってはいけない」「これをやりなさい」などと大人の価値観でアレコレ押しつけては、折角の成長の芽を摘んでしまいかねません。

特に思慮に欠ける大人の場合、想像力豊かで柔軟な思考を持つ子どもの方がうまいやり方を思いつくこともあります。

もちろん、人間として社会の中で生きていく上でやってはいけないこと、やらなければいけないことはたくさんあります。

そういうことは大人が教えてあげなければいけませんし、その教え方には工夫が必要ですが、それはまた別の機会に。

愛情を注ぐこと

さて、大人が子どもにしてあげられることの2つ目は「愛情を注ぐこと」です。

先程の「なにもしないこと」と矛盾するようですが、なにもしないことが必ずしも良いことではないのはご理解いただけると思います。

日本にはさまざまな環境の子どもがいます。

特に社会の変化に伴って、片親の家庭や両親共働きで遅くまで家に誰もいないという家庭も珍しくありません。

子どもは自ら成長する力を持っていますが、それ以前に「絶対的に信頼できる人間がいて、愛されている」という基盤がなければ、本来持っている力を発揮できません。

自分が完全に安全な立場にいて、初めて次のステップに踏み出せるのです。

勉強と同じようにひとつひとつ積み上げていかないといけないのです。

では具体的に、どのような方法で愛情を注ぐことができるのか、4つ紹介しましょう。

・名前を呼んであげる
・褒めてあげる
・一緒に遊んであげる
・話を聞いてあげる

名前を呼んであげる

名前を呼ぶためには存在を認める必要があります。

すなわち、名前を呼ばれたら存在が認められたと理解できます。

名前を呼ぶメリットはそれだけではありません。

名前を呼ばれたことによって子どもの意識がこちらに向き、こちらの話を聞いてもらいやすくなります。

何かをやめさせたいときには名前を呼んでから話しかけると成功率が高まります。

褒めてあげる

褒められたら誰でも嬉しくなります。

そしてもっと褒められたいのでもっと頑張るようになります。

こうやって良いスパイラルを作っていくのが理想形です。

一緒に遊んであげる

一緒に遊んであげるだけでも信頼感は築かれます。

「この人は僕に危害を与えない」という最低レベルの信頼もあります。

まずはそこからです。

話を聞いてあげる

今までの経験から、片親や両親共働きの子どもはお喋り好きな子が多いようです。

両親と過ごす時間が多い子ならば両親に話を聞いてもらえますが、そうでない子どもの場合は大人と話す機会が極端に少なくなります。

大人との会話はコミュニケーション能力の向上には極めて重要だと思われます。

それに、自分のことを知ってもらいたいという気持ちは子どもは特に強いのではないでしょうか。

広い世界に産み落とされたばかりなので、とにかく仲間を増やさなければいけませんから。

先に挙げた4つ以外にも絵本を読んであげると落ち着いたり、一緒にお弁当を食べると喜んだり、大人が子どもにしてあげられることはたくさんあります。

叱り方

叱り方についてお話しします。

まず、「怒る」と「叱る」は違う言葉です。

混同されたり、場合によっては同じ意味で使われることもありますが、ここでは分けて考えたいと思います。

ここでは「怒る」とは、「相手の行動に対して自分のイライラを相手にぶつけること」としましょう。イライラをぶつけることの中には、大声を出したり感情的に罵ったりすることが含まれます。

一方「叱る」とは、「相手の過ちを指摘し、それが何故過ちであるのかを説明すること」としましょう。

さて、教育心理学を学ぶと「負の動機付け」「正の動機付け」という言葉を学びます。

簡単に言うと、負の動機付けとは、罰を与えて行動を支配することです。

あるいは脅しなども含まれるかもしれません。

「宿題忘れた者は廊下に立っとれ!」とか「宿題しないとおやつ抜きだよ!」というようなものです。

一般に負の動機付けをすると言うことを聞かせやすいという特徴があります。

ただし、その望ましい行動は継続しにくく、罰を与えられたときだけ言うことを聞きます。

つまり、「誰も見てないしポイ捨てしちゃお」というような場合には負の動機付けはあまり効果的ではありません。

一方、正の動機付けは、褒美や報酬を与えて望ましい行動を促す方法です。

例えば「皿洗い手伝ってくれたら100円あげるよ」というようなパターンです。

正の動機付けは言うことを聞かせにくい代わりに、習慣化しやすいです。

怒るというのは負の動機付けに近いです。

「怒られるから先生が話してるときにふざけるのはやめておこう」という感じですが、別の先生の前ではふざけるでしょう。

叱る内容にもよりますが、「なぜやってはいけないのか」、「なぜやらなくてはいけないのか」をきちんと説明しなければなりません。

それに加えて、正の動機付けをしてあげるとなお良いでしょう。

子どもも人間ですから納得感がないまま行動を強制されるのは苦痛です。

将来大人になったとき、その苦痛と嫌な感情だけが残ることになってしまいます。

教育は子どもも大人もお互い楽しくやりましょう。

それが信頼に繋がります。

授業中のお喋りの場合はただお喋りが楽しいからやっているわけですが、それ以外の望ましくない行動の中には奥深い理由が隠れている場合があります。

例えば、おもちゃを投げている子どもがいたとしてその理由が「おもちゃを投げるのが楽しいから」とは限りません。

「友だちに嫌なことを言われた」
「高い所に乗ってしまったものを落とそうとしている」
「気持ち悪い虫がいるのでやっつけたい」

などなど、想像力を働かせれば理由は無数にあります。

特に「友だちに嫌なことを言われた」というような場合には、子どもの心もナイーブになっています。

そこに来てヒステリックな声で「投げちゃダメっていつも言ってるでしょ!!何度言ったらわかるの?!!良い加減にして頂戴!」などと言っても、子どもの心はパニックになるばかりなのは目に見えています。
 
こういうときは、可能なら静かで涼しい所に連れて行き、「どうしたのかな?」と聞いてあげることが必要です。

動機付けと言えばゲーミフィケーションという言葉もあります。

教育にゲームを導入した考え方です。

算数を使ったパズルゲームとか、英語を使った歌や踊りの遊びとかもそうですし、「床に落ちているゴミを誰が1番多く拾えるかな?」みたいなこともゲーミフィケーションです。

ゲーミフィケーションは楽しく勉強できるので積極的に使って行きたいですね。

さいごに

少し高度な話もしましたが、私が退職した事業所の上司は上で説明したような基本的なことができていませんでした。

子どももかわいそうでしたし、大人も同様の扱いを受けていました。

念のため断っておきますが、彼女は明るくフレンドリーでとても真っ直ぐな素敵な方でした。

しかしながら、教育に必要な資質が備わっておりませんでした。

今後、その真っ直ぐな刃がいつ、何をきっかけに私に向くか想像がつかず、身の危険を感じ退職いたしました。

子どもたちにはかわいそうなことをしたと思いますが、近い将来、その事業所の子どもたちは別の場所へ移動することが決まっています。

別の場所で子どもたちとまた再開できることを楽しみにしています。



おまけとして想像力を高める絵本を2冊紹介します。

この絵本を見ると、自分の想像力のなさがよくわかります。

想像力が足りないのはある程度仕方がないことですが、想像力が足りないことを自覚していないことは大問題です。

「かもしれない運転」って言葉がありますが、「かもしれない教育」も流行らせていきたいですね。